今日は朝から、今でも伊勢の型紙で染めている数少ない工場である、「染処古今」を見学させていただきました。
挨拶を済ませると、さっそく工場を見学させていただきました。
↓こちらは染める時に使う糊です。もち米と糠を混ぜて作っているとのこと。
写真の方が、染処古今の4代目、安江敏弘さんです。
↓型染の袋帯
↓型染の江戸小紋ですね。
型は人間国宝の「中村勇二郎」さんの「猿頬」。
屋久島の木(おそらく縄文杉)の木目を表現しているそうです。
↓この写真の中心が継ぎ目なんですけど、肉眼で見ても継ぎ目はまったく分からず、完全につながっているようにしか見えません。
みんな継ぎ目に感動するらしいですが、本当は型紙1枚分に均等に糊を引くほうが難しいらしいです。
↓上の型紙で染めた小紋がこちら。
今回は染める工程は見られなかったのですが、糊に朱の染料を入れて糊で伏せた部分以外を黒で染めると上のような色になるのだと思います。
(これは親父に聞きました。)
その後、事務所で安江社長のお話を伺いました。
事務所には、人間国宝六谷梅軒さんや南部芳松さんの型紙が大切に飾られていました。
他にも日本最古の関所の通行手形が無造作に置いてあったり、千成瓢箪が置いてあったりと珍しいものの宝庫で、二階には工場で染めた江戸小紋がたくさん置いてありました。
型染めのぼかしの訪問着などがありましたが、今では型を使ってぼかしを作れる職人は日本で一人しかいないそうです。
後継者もいないので、その人が亡くなったらもう作品は作られないわけですね。
まるで1羽になったトキのように、滅びることが確定しているというのはなんともさびしいものでした。
お土産に型染めの帯揚げをいただきました。
帰りの新幹線で、工場でいただいた本を読みながら安江さんの壮絶な修行時代の話を読んでいろいろと考えさせられました。
---本から引用---
私が入った年、九人が入りましたが、一人前になったのは、たった二人でした。
丁稚は朝三時半から桶洗いをやり、その後、糊練り、色合わせといったことを習いました。でも、この四年間は皆辛抱してクリアしていくのです。
~中略~
その後、型付けという作業に入るのですが、そこで半年すると七人が辞めた。
半人前の人間は七年の修行が終えるまで反物の上で練習はできない。絹は非常に高価なものですから、私たちは板の上に木綿の生地を反物の幅に切って、その上から破れた伊勢型紙を職人さんからもらって、破れた型紙の上から糊をおろして柄をつなぐ練習をする。つなぎ終わると、木綿の生地を板からめくって井戸水で洗濯してアイロンで乾かすという練習を毎日毎日十三時間~十四時間も同じことを三年間やる。
二ヶ月すると同僚に異変が起こりました。
木綿の生地と破れた型紙を見ただけでえずいてくるのです。拒絶反応が起こる。
とうとう私がそこで貧血をおこして入院したことがある。六十三キロあった体重が五十一キロまで痩せたのです。
~以下、略~
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その後、入院中に修行を辞める決意をしつつも、母親に戻ってきてはいかんと言われて泣く泣く修行を続けてなんとか七年間の修行を終えたそうです。
お話を聞かせていただいた気さくな安江さんからは想像できない、壮絶な青年時代の話に感動というか驚きというかなんと表現してよいか分からない感情が沸いてきました。
自分がいかに恵まれているか、とか、どうすればこういった素晴らしい技術を途絶えさせないことができるのか、とか、たくさんのことを考えました。
本物の仕事のよさを伝えていくことも呉服屋の仕事ですね。
機会があればまた工場見学に行って、当時の話を伺いたいと思います。
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